城崎温泉は、開湯1300年を超える歴史ある温泉地です。今や人気の温泉として有名な城崎温泉ですが、どのように始まったのでしょうか。1300年間をさかのぼり、城崎温泉の歴史をご紹介いたします。
城崎温泉の由来:鴻の湯の伝説
城崎温泉のはじまりに関する伝説には、諸説あります。その中のひとつが、「鴻の湯の伝説」です。この説では、城崎温泉を発見したのは怪我をした鴻鳥(コウノトリ)だとしています。
遡ること約1400年前。大谿川の上流にある大木に、コウノトリが巣をつくっていました。その中の1羽が足を痛めて田んぼに降り立ち、足を水に浸したところ、数日後には元気よく飛び立つことができたそうです。これを目撃した人が、コウノトリが飛び立った場所を確認したところ、温泉が湧いていたのです。これが、城崎温泉の始まりだといわれているのが、「鴻の湯の伝説」です。
コウノトリの足をすぐに元気にした「コウノトリのお湯」は、不老長寿の湯、そして幸せを招く湯として、多くの人々に愛されています。
また別の説では、コウノトリの夫婦が足の傷を癒した湯だとしており、コウノトリの湯には夫婦円満のご利益もあると言われています。
コウノトリは、城崎温泉の歴史にとって非常に大切な存在なのかもしれませんね。
城崎温泉のはじまり:道智上人の祈願
こちらでは、もう一つの伝説を紹介します。
元正天皇の養老元年(717年)、道智上人が城崎に訪れました。その時に、難病に苦しむ人々を目にしたことによって、なんとかして病気で苦しむ人々を救いたいと願うようになりました。すると、道智上人の夢に白髪の老人が現れ、「上人よ、ここから西南にあるビランの木の下を掘ると汝の求める温泉が見つるだろう」と言いました。
道智上人はそのお告げを信じ、今のまんだら湯の場所に庵を結んで、八曼陀羅経(はちまんだらきょう)というお経を1,000日唱え続けました。すると、満願し霊湯が湧き出したそうです。これがまんだら湯の由来であり、城崎温泉のはじまりとしています。
城崎温泉伝統工芸:麦わら細工と半七師
兵庫県の伝統的工芸品であり、豊岡市無形文化財に指定されている「城崎麦わら細工」は、城崎の誇る伝統工芸です。
大麦のわらを原料にして、桐箱や色紙に細工をしてつくられる「城崎麦わら細工」は、職人による芸術作品です。繊細な手作業でしか出せない美しい模様が魅力です。
2種類の手法がありますが、どちらも国内では城崎のみで生産されています。
「城崎麦わら細工」の歴史は、今から約300年前にはじまります。
江戸時代の享保年、因州(鳥取県)に住んでいた「半七」という者が、湯治のため城崎温泉へ来ていました。
半七は、宿代の足しになればと、麦わらを赤、青、黄に染めて、こまや竹笛の玩具にはり付けたものを、入浴客にお土産として販売しました。これが「城崎麦わら細工」のはじまりといわれています。
半七の麦わら細工は好評で売れ行きがよく、次々に新しい作品が発売されたそうです。「城崎麦わら細工」の歴史をつくった「半七」の碑は、温泉寺境内の薬師堂の横に建てられました。
「城崎麦わら細工」は、ドイツ人医師のシーボルト・コレクションに収録されたそうで、海を渡って城崎の素晴らしい技術が広まったといわれています。
「城崎麦わら細工伝承館」では、職人の作品に限らず、絵はがきなどの制作体験ができるコーナーも開催していますよ。
江戸時代:温泉番付
温泉番付とは、温泉地を大相撲の番付に見立てて格付けをしたものをいいます。実は。温泉番付は江戸時代から存在していました。
西日本版の温泉番付では、横綱は大分県の「別府温泉」ですが、なんと第2位の大関に「城崎温泉」が選ばれています。
また、嘉永4年(1851年)の諸国温泉功能鑑による西日本の番付では、横綱不在で大関が兵庫県の「有馬温泉」。そして、第2位の関脇で「城崎温泉」が選ばれていました。
城崎温泉と志賀直哉:城の崎にて
志賀直哉は、明治時代から大正時代にかけて大活躍した文豪です。短編小説・随筆の中で一番有名な作品は、大正6年(1917年)に白樺派の同人誌「白樺」にて発表された「城の崎にて」です。
「城の崎にて」の主人公は、電車(山手線)にはねられて怪我をしてしまいました。そこで、治癒のために城崎温泉を訪れます。ある日、小川の石の上にいるイモリを何気なく見ていましたが、驚かそうと石を投げると、イモリに当たって死んでしまいました。哀れみと、生き物の淋しさを感じ、動物の死と生きている自分を両極ではないという感慨を持ちました。ざっくりとしたあらすじですが、このようなお話です。
城崎温泉には、志賀直哉ゆかりの温泉宿があります。「三木屋」という老舗旅館で、創業から300年以上続く有名旅館です。志賀直哉が、実際に宿泊しており、小説にも登場します。なんと三木屋では、志賀直哉が宿泊した部屋に宿泊することもできますよ。
城崎全町崩壊からの復活
城崎温泉の開湯から1300年。この長い歴史の中で、最も大きな危機が「北但大震災(ほくたんだいしんさい)」です。大正14年(1925年)の5月23日、午前11時9分のことでした。
兵庫県但馬地方北部を震源として、マグニチュード6.8の大地震がおこり、多くの家屋が倒壊しました。発生時刻が昼前だったため、食事の支度で火を使っている家庭が多く、大規模な火災が発生してしまいました。焼失した家屋は、2,000戸を超えたそうです。城崎の街は、24日の未明まで燃え続けました。
死亡者数は、城崎でなんと272人もおり、家屋内で犠牲になった人が大半でした。有名な入浴場は、地蔵湯の一部だけを残して倒壊や焼失してしまいました。
その後、温泉街は復興の第一弾で外湯の復旧が進められました。大正15年から昭和7年にかけて、6か所の浴場を新築し、昭和10年には旅館や商店、街並みなど、ほぼ完成しました。
北但大震災によって、すべてを失ってしまった城崎温泉ですが、城崎の人々の共助の精神のおかげで、素晴らしい早さで復興しました。
終戦後の近代化
第2次大戦後、高度経済成長などの波によって、観光客は大衆化しました。そのため、旅館を増大させるとともに、旅館経営の近代化、合理化を促進しました。
こうした動向の中で、和風を基調としていた城崎温泉に大規模なホテルが出現しました。また、旅館の増改築が進み、山間地の狭小な平地は過密化を進行させました。
城崎温泉は、歴史とともに徐々に変貌を遂げ、今日に至っております。
まとめ
有名な人気温泉地である「城崎温泉」には、古い歴史があることが分かりました。大地震による大打撃を乗り越え復興した城崎温泉には、魅力が数多くあります。ぜひ、訪れる前に城崎の歴史を把握し、旅を更に充実させてくださいね。